
スイスの時計産業が、重大な岐路に立たされている。新型コロナウイルス禍以降、多くの時計メーカーの雇用を支えてきた政府による一時解雇支援プログラムが、来る8月1日をもって終了するのだ。これは単なる支援の打ち切りではなく、世界的な高級時計需要の構造的変化に直面する業界にとって、いわば「審判の日」の到来を意味する。
延命措置の終焉と露呈する構造問題
この支援プログラムは、パンデミックによる急激な市場の停滞に対応するため、一時解雇された従業員の給与の80%を政府が補填するという、いわば緊急の延命措置であった。多くの企業がこの制度を活用し、熟練した時計師や技術者の雇用を維持してきた。
しかし、この制度が想定していたのはあくまで短期的な危機からの回復であり、2023年後半から続く長期的な需要の低迷ではない。スイス時計協会(FH)によれば、2024年のスイス時計の輸出額は2.8%減少し、かつて最大の牽引役であった中国市場に至っては約26%減という深刻な落ち込みを見せている。世界的なインフレ、金利上昇、そして地政学的不安が消費者のマインドを冷え込ませ、高級時計のような高額な嗜好品への支出を鈍らせているのが実情だ。
8月1日以降、企業は従業員の給与を全額自社で負担するか、あるいは恒久的な解雇に踏み切るかという厳しい選択を迫られることになる。
二極化する業界—安泰なトップブランドと苦しむ中小
この危機の影響は、業界全体に均一に及ぶわけではない。ロレックスやパテック・フィリップといった一部のトップブランドは、依然として強固なブランド力と需給をコントロールした戦略により、景気の波に揺るがない顧客層を掴んでいる。彼らにとって、この状況はむしろブランドの希少性を高める追い風にさえなり得る。
一方で、深刻な打撃を受けるのは、中小規模のブランドや、ムーブメント・部品などを供給するサプライヤーである。特に、独自の技術やデザインで勝負してきたが、ブランド力がトップ層に及ばないミドルレンジのメーカーは、最も厳しい環境に置かれる。すでにケリンググループから売却されたジラール・ペルゴやユリス・ナルダンが従業員の15%を時短勤務に移行させ、時計製造の聖地であるジュラ州では、工具や部品メーカーを中心に40社以上が時短勤務の申請を行ったという事実は、水面下で進行する危機の深刻さを物語っている。
「技術の継承」というジレンマ
時計業界が他の産業と一線を画すのは、その労働集約的な性質と、高度な専門技術にある。時計師の育成には長い年月と多大なコストを要し、一度失われた技術やノウハウを再び取り戻すことは極めて困難である。そのため、企業は可能な限り恒久的な解雇を避けようとする。需要が回復した際に、生産体制を迅速に立て直せなくなるリスクを恐れるからだ。これが、解雇ではなく「時短勤務(short-time working)」という選択肢が広がる背景にある。しかし、時短勤務もまた、従業員の収入減やモチベーション低下につながりかねない、痛みを伴う策であることに変わりはない。目先の雇用を維持するために、未来の成長の種を失うというジレンマに、多くの経営者が頭を悩ませている。
今後の展望—再編の波と日本市場への影響
8月1日以降、スイス時計業界では企業の淘汰が起こる可能性がある。資金力に乏しい独立系ブランドやサプライヤーの中には、事業の売却や廃業を余儀なくされるケースも出てくる可能性が高い。これは、大手グループによるM&Aが加速する引き金となり、業界の寡占化が一層進む未来を予見させる。
この動きは、日本の正規販売店や消費者にとっても無関係ではない。一部ブランドの国内市場からの撤退や、供給の不安定化、さらにはブランド価値を維持するための価格戦略の変更などが起こり得る。我々業界関係者は、スイス本国の動向をこれまで以上に注視し、サプライチェーンやブランドポートフォリオの見直しを迫られることになるだろう。
スイス時計業界は今、単なる景気後退ではなく、その存在意義そのものを問われる歴史的な転換期を迎えている。この苦境を乗り越え、新たな価値を創造できるのか。時計に刻まれる「時」が、今ほど重い意味を持つ瞬間はない。
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