
ダイヤモンドの品質を語る際、しばしば「ハート&キューピッド(H&C)」という言葉が登場する。カットの美しさ、対称性の高さ、そして何より「輝きの証」として称賛されるこの基準。しかし、業界の内実を正確に見れば、H&Cは絶対的に品質を保証する基準ではない。むしろ、誤解された象徴として独り歩きしている側面がある。
*海外ではH&A(Hears & Arrows – ハート&アロー)と呼ばれるが、日本ではH&C(Hear & Cupid – ハート&キューピッド)の名称で知られている。「ハート&キューピッド」は中央宝石研究所の登録商標。
日本発祥の「ハート&アロー」現象
H&Cは、1980年代の日本で発見された視覚現象だ。ラウンドブリリアントカットのダイヤモンドを特殊なスコープで観察した際、上面(テーブル側)に矢の模様、下面(パビリオン側)にハートの模様が現れることが確認された。これは、ファセットの角度・方位・形状が極めて精密に整合している場合にのみ見える「光学的対称性」の表れだ。
当初、H&Cとは「模様を作る」ことを目的としたものではなく、光学的に最も効率よく輝くカットを追求した結果現れた模様だったと言える。その結果として、極めて対称性の高い石にはH&C模様が現れることが分かり、のちにそのパターンがカット精度の象徴として広まっていった。
しかし、1990年代以降、日本を中心に業界はこのH&Cを「職人技の可視化」として積極的に受け入れた。「ハート&キューピッド仕様」などの名で販売促進に活用され、H&C=高品質というイメージが定着した。8本のキューピッドの矢が8つのハートを射抜くというロマンチックなストーリー、及び日本人の「見えない品質を見える化したい」という文化的嗜好も後押しし、H&Cは“美しい模様”を超えて、“品質の象徴”に昇華された側面がある。
その結果、目的と結果が変化する。今では多くの研磨工場が、H&C模様がきれいに見えるように角度とアジマス(方位)を微調整しながらカットしている。つまり、“H&Cパターンを出すこと自体”が目的化しているとも言える。この傾向は特に日本市場で顕著で、“H&Cが出ていない=品質が低い”と誤解されやすい文化的背景もあるだろう。
海外では「光性能」の一要素に過ぎない
一方で、欧米ではH&Aを品質そのものとはみなしていない。たとえばGIAやAGSは、ダイヤモンドの「Cut(カット)」評価を“光の返り(light return)”“輝き(brilliance)”“きらめき(scintillation)”など光学性能に基づいて行うが、H&Aの有無を評価項目に含めていない。
つまり、H&Aは「ファセット配置の整合性」を示す光学的パターンに過ぎず、「輝きそのもの」を保証するものではない。たとえば、ExcellentカットでもH&A模様が出ない石もあれば、Very Goodカットでもきれいなハートと矢が見える石も存在する。逆に言えば、「H&Aが出る=光性能が高い」わけではない。
AGL(日本鑑別団体協議会)の見解 – H&Cは品質評価項目ではない
日本における宝石鑑別の基準を策定しているのは、AGL(日本鑑別団体協議会)だ。AGLは、鑑別書や鑑定書の統一基準を定める国内団体であり、CGL(中央宝石研究所)をはじめとした主要機関の評価体系に整合性を持たせている。
AGLでは、H&C(ハート&キューピッド)を「ダイヤモンドの品質評価項目」に含めていない。カットグレード(Excellent、Very Goodなど)は科学的測定に基づいて評価され、H&C模様の有無は参考情報として任意に付記される場合があるのみだ。
また、CGL公式サイトには次のような記載がある。
「このパターンの出現は、ある範囲のプロポーションとある水準以上のシンメトリーであればカット評価がExcellentでなくても観察できます。あくまでも視覚的な対称性を伴った現象ですが、光学的に考えてもこのパターンが出現するダイヤモンドの光学的対称性はかなり高いと言えるでしょう。」
この説明からも明らかなように、H&Cパターンは光学的対称性を視覚的に示す現象であり、カットグレードや輝きと直接的な相関を持つものではない。さらに、AGLを含む国内鑑定機関の統一基準にH&C評価が含まれていないという事実は、各機関がそれぞれ独自の「H&C判定基準」を運用している可能性を示している。言い換えれば、H&Cの評価は現状では標準化されておらず、あくまで各機関の自主的な判断に委ねられているのが実情だ。
「輝き」と「模様」は別物
理論上、輝きの最適条件(光学性能)とH&C模様が整う条件(光学対称性)は近い位置にある。そのため、上手く設計された石では両立が可能だ。しかし常に完全には一致するわけではない。たとえば、H&C模様を完璧に整えるために角度を微調整すると、光の反射角が理想値からずれ、その結果、光のリーク(光漏れ)やコントラスト減少が生じ、輝きがやや鈍く見える可能性がある。つまり、「模様を整える」と「光を返す」は似て非なる技術だと言える。このどちらを優先するかは、メーカーやブランドの設計思想によって異なるだろう。
一方で、H&Cを見て「対称的で美しい」と感じること自体は、まぎれもなく価値のある体験だ。ただし、それは「輝き」ではなく、「整った模様の美しさ」だと言える。実際、H&Cが明瞭に出る石でも、光の反射効率が低く暗く見える場合がある。逆に、模様がやや崩れていても、卓越した光性能を示す石も存在する。輝きとは、光の入り方・反射角度・内部反射の経路・観察角度の総合結果であり、H&Cという“静止パターン”とは別次元の現象だ。
この違いを混同すると、「ハートがきれいだから良い石だ」「H&Cと書いてあるから高品質だ」という誤った判断が生まれる可能性がある。
日本における「H&C信仰」の構造
日本ではH&Cが“ブランド価値”を帯び、ラグジュアリーの象徴として独自の市場を形成してきた。消費者にとってわかりやすい可視指標であり、業者にとっても差別化が容易なため、広告的価値が高い。しかしこの構造は、H&Cが「見せ方の技術」として過剰に崇拝され、本来のカット理論や光学性能評価を軽視する危険をはらむ。
たとえば、H&Cを優先するあまり、原石歩留まりを犠牲にしてまでファセットの整合を追求するケースもある。
その結果、キャラットロスが大きく、価格効率が悪化することすらある。本来、消費者が求めるべきは「H&Cが出る石」ではなく、「肉眼で最も美しく輝く石」であるはずだ。
海外の潮流 – 光性能評価の時代へ
欧米やアジア主要市場では光性能(Light Performance) の定量評価が主流となっている。Ideal-Scope、ASET、Sarine Light などの分析装置を用いて、「光のリターン」「リーク(光漏れ)」「コントラスト」「ファイア」などを科学的に可視化し、数値化した評価を行う。すなわち、海外では「模様」よりも「光」を見る時代にすでに移行している。
正しい教育と透明な基準
H&Cがもつ美的価値を否定する必要はない。むしろ、その「見える精密さ」は職人技術の結晶として評価されるべきだ。だが、同時にそれを「品質そのもの」と誤解しないための教育と説明責任が、求められるだろう。
販売現場では、H&Cの写真やスコープ画像を提示する際に、「これは輝きの証ではなく、対称性の指標です」と明確に伝えるべきだ。鑑別機関や業界団体も科学的中立性を堅持し、消費者が正確な情報に基づいて選択できる環境を整えることが望ましい。
「見える美」と「光る美」を区別する
ハート&キューピッドは確かに美しい。しかし、ダイヤモンドの真価は「模様の整い」ではなく、「輝き」だ。H&Cが出る石も、出ない石も、それぞれに個性と美しさがある。大切なのは、H&Cという“図形的な美”と、ダイヤモンド本来の“光学的な美”を区別して理解することだ。
コメント